陸前高田市には
仏教会がありますか?
という電話があった。
震災前は
仏教会もあって
活動していたが
現在は休眠状態であることを話した。
うっかり
何のための問い合わせなのかは
聞かなかった。
震災翌年あたりからは、
義援金や物資の申し出により
問い合わせがあったが
ここ数年は皆無だった。
何の問い合わせだったのか、
気になったままである。
そこで
陸前高田市の仏教会について
振り返る事にする。
市内には震災前
23ヶ寺のお寺があった。
18ヶ寺は正住職がいて、
他は兼務住職
(他のお寺の正住職が兼ねている)である。
総会、花祭り稚児行列、
戦死病没者追悼法要、
歳末助け合い托鉢の事業を
毎年行っていた。
仏教会は年数回の
異宗派の集まりである。
他の仏教会の様子を聞くと
色々なことがあるらしいが、
当会は和気あいあいの
とてもいいお寺同士の
交流ができていた。
総会はその年度の重要な場であり、
花祭り稚児行列は
私が以前、園長をしていた
幼稚園の年長組が衣装を着て
お釈迦様の花御堂を乗せた白象を引き
町内中心部を行列した。
町内の人も
楽しみにしていた行事であった。
雨天で中止になると
お稚児さん、保護者、町内の人
そして我々会員もがっかりした。
戦死病没者追悼法要は
仏教会が主催で
行なっているのは珍しいらしく、
遺族会の方が
県の集まりに行った時に、
陸前高田市では、
市町村の慰霊祭とは別に
仏教会が行なってくれると話したところ、
他から羨ましいと言われたとの話を聞いて、
仏教会員は少し
鼻高?になったことも懐かしい。
歳末助け合い托鉢は
震災で大被害を受けた
高田町と気仙町を
1年交代で行なう、
年末の風物詩であった。
会の事業の会場は
街の中心部にあった
うちの寺になることが多かった。
他寺の住職が集まるので
掃除もいつもより
念入りに行ったことも思い出である。
そんな仏教会であったが、
東日本大震災では
5つのお寺が津波により被災し
4つのお寺が全壊、
ひとつのお寺(私のところ)が
大規模半壊となり、
全壊したお寺のうち2つは
仏様のご加護のもと
住職・お檀家さんの努力により
現在再建されている。
震災時仏教会の役員は
会長、副会長二人、事務局二人であった。
会長は私の同級生であり
同じ宗派であり大学も一緒であった。
この会長は震災で犠牲となり
娘さんも震災で亡くなっている。
副会長のお寺は幸い無事。
事務局は私と親戚ではあるが
他宗のお寺の副住職(当時)で
住職夫婦と自分の妻が犠牲となり
寺も全壊した。
(現在は再建済み)
もう一人の事務局は
私である。
会長が亡くなり、
ふたりの事務局が大ダメージを受け
こんな状況で会の運営はできず、
優先順位も自分のところが
先になるのは当たり前。
震災後一度も集まることもなく、
復興が進みだすと、
少しの余裕が出て
大勢の犠牲者がいるこの地で
仏教会が何もしなくていいのか
という思いがつのり、
副会長に相談し
今年2月震災後初の集まりを持った。
14のお寺の参加があり
どこのお寺でも
気にしていたことがうかがえた。
目的は懇親を深めることと、
今後の会の運営についてであった。
私は言い出しっぺとして
今回の集まりへの思いを伝え、
現況を報告してもらった。
住職が変わった、
副住職がいる、
副住職が結婚した、
孫が誕生した、
お寺が再建できたなど
嬉しい話題も。
いきなり
以前と同様のことはできないが
陸前高田市仏教会として
事業を行なっていくことを
確認できたことは
言い出しっぺとしては
とても嬉しいことであった。
少し先ではあるが
震災物故者の法要を
行うことを決めた。
我が寺の復興は
現在進行形である。
菅原瑞秋(すがわら・みずあき)、1958年生まれ。岩手県陸前高田市にある浄土寺の住職。以前は併設の幼稚園で園長も務めていたが、東日本大震災で寺は大規模半壊、園舎は跡形もなく流され現在休園中。奇跡的に家族の中には犠牲者が無かったが、愛犬一匹を失い、自身も避難所で3カ月、仮設住宅で3年間の生活を余儀なくされた。最大規模の被災地にある寺の住職として、犠牲者の魂や遺族たちの心を支え続けている。現在は妻と震災後にやってきたフレンチブルドッグのハナちゃんと生活。3人の子どもたちは成人し、それぞれ東京などで暮らしている。
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