視点と思考
三重県立美術館で
「モダニストの日本美-石元泰博『桂』の系譜」という
展覧会が開かれています(3月4日まで)。
石元泰博氏(1921~2012)は、
私の大好きな写真家の一人。
見逃すわけにはいきません。
桂離宮に息づく日本の伝統美を、
米国暮らしの長かった石元氏の
モダンな視線で切り取っています。
三脚を据え、じっくりと対象物の本質に迫るスタイルで、
作品を見ているとこちらまで背筋が伸びます。
一方で石元氏は、
一発勝負のスナップ写真でも優れた作品を残していて、
ものを見る目の確かさを感じさせます。
石元氏は米国生まれ。
幼い頃に一度、日本に移りますが、
再度渡米。
戦時中の日系人収容所暮らしを経て
シカゴ・インスティテュート・オブ・デザインで
写真を学びます。
シカゴの街をスナップした写真集
「シカゴ、シカゴ」は傑作ですが、
今では古書店でしか手に入りません。
しかもバカ高い。
私は、石元氏が幼少期を過ごした高知県の美術館による
展覧会の図録で内容を知りましたが、
写真が小さくてもどかしい。
今回の展覧会では、
そんなストレスはありません。
今回取り上げられた写真集「桂」もまた有名な作品で、
何度か再版され印刷も
どんどん美しくなっています。
それでも展示されたモノクロの
銀塩プリントにはかないません。
被写体は、柱、ふすま、障子、踏み石といったもので、
縦横斜めの直線が織りなす
造形美にため息が出ます。
今の時代、
写真なんて誰でもきれいに撮れます。
だからこそ、どう撮るか、
どこに視線を向けるかがより重要です。
せっかくの貴重な被写体、瞬間であっても、
視線がいい加減では何も伝えることはできません。
視線の大切さは、
別に写真に限ったことではないと思います。
不可解な出来事や難しい問題でも見方を変えると、
ポイントが浮かび上がってくることがあります。
それでも、どうもよく分からない、
というときは真正面からしっかり見る、
光の加減が変わるのを待つ、
一度離れてみる、
裏側に回ってみる、
といったことを繰り返すと、
「そうか、こういうことか」という瞬間が
訪れることってありますよね。
「写真家のコンタクト探検
一枚の名作はどう選ばれたか」(平凡社)という本では、
有名作品のコンタクトプリント
(ネガ1本を印画紙に密着させて焼き付けたもの)を
本人のコメント付きで解説しており、
決定的瞬間をとらえるまでの
写真家の思考の動きをうかがい知ることができます。
新聞社にはたくさんのカメラマンがいますが、
ペン記者も写真を撮ることはあります。
若い頃から訓練され、それなりに
紙面に耐えうる写真を撮れるようになっていきます。
「写真が下手な記者は記事もうまくない」などと
尻をたたかれながら。
(言い訳すると、慌ただしい現場で
メモを取って写真も撮ってとなると、
どうしても「本業」のペンを優先してしまうのです)。
ニュースのポイントをうまくとらえて抽出し、
分かりやすい形で提示する、という作業は
写真撮影と記事の作成で共通することです。
ニュース写真の撮影では、
対象にぐっと迫って、
その特徴が最もよく分かるアングルを探し、
空白は少なく、がセオリーです。
しかし、個人的にはこれでは面白くないな、
というところもあります。
セオリー通りでは没個性的というか。
一方、ロイターやAP通信といった
海外の通信社の写真は、
ちょっと芸術的な味付けもあってかっこいいんですね。
それは訓練によるものなのか、文化なのか。
あるいは、いろんな会社を渡り歩き、
一枚いくらで売り込むことも多い海外のカメラマンは、
個性をアピールすることが
必須だからなのかもしれません。
大げさに言うと人生観の違いかも。
美しい構図、トーンの写真も素敵ですが、
撮影者がちょっと自分をさらけ出すような写真、
何を考えているのか
うっすら見える写真にも魅力を感じます。
アラーキーこと荒木経惟氏が
まさにそのタイプですね。
撮影者は当然、写真に写っていませんが、
存在感が作品ににじみ出ています。
でもそれは実は怖いことで、
なかなかできることではありません。
文章のようにあれこれと
取り繕うことができないだけに、
実は赤裸々に自分が表れると思います。
そして、そんな写真家の文章は、
やはりなかなか面白いのです。
粂 博之(くめ・ひろゆき)
1968年生まれ、大阪府出身。関西学院大学経済学部卒。平成4年、産経新聞社に入社。高松支局を振り出しに神戸総局、東京経済部、大阪経済部デスクなどを経て2017年10月から単身赴任で三重県の津支局長に。妻と高校生の長男、中学生の長女がいる。
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