④homeからhouse になった日

東日本大震災が起きるまでは、福島県との県境に近い宮城県丸森町の里山で、家を手作りし、自給自足に近い生活を送っていた5人家族。原発事故の一報を受け、夫の母国、イギリスへ渡ることを決断。着の身着のまま日本を脱出したあの時から今日までを妻であり母である、チエミが振り返ります

『homeからhouse になった日』

 福島原発事故から約5日が過ぎた頃でしょうか、

被害の大きさが少しずつ明らかになり、

長期戦を覚悟し始めた我が家は、

それまでの避難先だった山形を出て、

関西方面に向かうことにしました。

途中、高速道路で、

何台もの東北の被災地に向う自衛隊のトラックとすれ違いました。

『がんばれ!東北』という大きな横断幕を前方につけて、

私たちの車とは逆方向に果敢に向かってゆくトラックを見た時には、

完全に心も体も2方向にちぎられたような気持ちでした。

3人の母として少しでも放射能の影響のない場所に

子供たちを連れていきたい自分と、

まだその時点では安否が分からなかった

石巻の両親のもとへ飛んでいきたい自分が、

ひとつの体の中に、

どうしようもなく存在していました。

放射能の被害は目に見えないので、

『避難する人としない人』がはっきりと分かれます。

どんなことにおいても、

行動を起こした人は、

何かと非難の対象となることが常の日本社会ですから、

日本人の私はイギリス人のギャビンさんよりも、

『避難するという行動』を起こしたことに対する後ろめたさの様なものを、

自動的に感じ取ってしまっていたようにも思います。

これまで属していた“群れ”から、

ある日突然、

『いち抜け』した裏切り者のように自分自身を見てしまっていました。

原発事故の一報を聞いた時に、

ギャビンさんの頭の中には、

真っ先にチェルノブイリ事故のことが蘇ったといいます。

当時17歳、

イギリス南部に住んでいたギャビンさんにとって、

その時のヨーロッパ中のパニック状態は衝撃的で、

その後もしばらくの間、

乳製品が規制されたり、

土壌の検査があったりしたことを生々しく記憶していました。

環境問題を専門とする道にギャビンさんを導いたのは、

この経験だったといいます。

2011年も終わりに近づいたある日、

原発事故の全貌がやっと少しずつ見え始めてきた頃です。

ギャビンさんが、

「あの家はhomeではなく、houseになった」と言いました。

homeは家族の声が聞こえる暖かい場所で、

houseは単に住むための建物。

並大抵の精神力がなければ建てられなかったあの家でさえも、

家族がそこで安心して住めなければ

ただの箱に過ぎないということです。

その頃、私の中には、

「あれほど魂を込め、

自分の手で造った家に住むことを

ギャビンさんが諦めることはないだろう」

という思いがどこかにあったので、

この発言には少し動揺しました。

『○○シーベルト/時なら健康に被害はない』、

『いや、やはりそれでも危険』などという

相反する情報があちこちで飛び交い、

何を信じてよいのやら分からず振り回される中で、

『放射能は人間にとって

未だ未知のものであるということを認めて離れるべきだ』という

ギャビンさんの言葉に、

私たちが多くを話し合う必要はありませんでした。

(つづく)

自分たちで家を建てていた宮城県丸森町で、長男(当時6歳)に薪割りを教えるギャビンさん

【オールライト千栄美】:1972年石巻市生まれ。イギリス人の夫と長女(16歳)、長男(15歳)、次男(12歳)の5人家族。再生可能な環境開発を専門とする夫と共に、“都会とは全く違う環境で行う、ビジネスマン向けリトリート施設の建設”という構想を抱き、2008年、宮城県と福島県の境にある小さな山里に移住。その構想の第一歩として、“西洋と東洋の伝統に自然を融合させた新しい技術”をコンセプトにした家づくりを2011年3月11日午後2時45分(つまり、東日本大震災勃発の瞬間)まで家族で行う。その後、夫の母国イギリスへ。現在は、オンラインで日本に英語レッスンをお届けする【英語職人】を生業とする。https://chiemiallwright.wixsite.com/online-eikaiwa

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