⑳悲喜こもごもの報せ

東日本大震災で被災し、避難所で3ヶ月、仮設住宅で3年間暮らしたお寺の和尚が、奇跡の一本松や巨大なベルトコンベアで全国に知られることとなった故郷、岩手県陸前高田市のことを書いていきます。フレンチブルドッグのハナさんは震災でかつての愛犬を亡くした和尚のために、妻と娘たちが連れてきてくれた新しい相棒です

悲喜こもごもの報せ

4月25日の岩手日報の記事に

陸前高田市のことが4つも載っていた。

うれしい記事2件、残念な記事2件。

 

前者のうちのひとつは、

7年の歳月を経て

住宅地となった高台に

郵便局が開局したという報せ。

これまでは5キロ以上離れた

隣の郵便局を利用しなければならず、

お年寄りが使うことも多い

身近な金融機関として利便性が良くなった。

ただ、我が街には他にも

未だ再開出来ない郵便局がある。

 

 一方、残念なほうのひとつは

市内の子供の貧困率、

そのショッキングな調査結果だ。

子どもの貧困率については

震災が大きく影響していることは想像できるが、

以前のことはわからない。

ネットで調べると3年ごとに

大規模調査がされるとある。

 

市内の中学生以下の子供の保護者と

中学生を対象に昨年11月と12月に

「子どもの生活アンケート」を実施。

県内沿岸被災自治体では

今回が初めてとのこと。

その結果、

必要な食料が買えないことが

「何度かあった」「頻繁にあった」という回答が

18.6%もあったのは

とてもショックだった。

母子家庭での貧困率が高く、

震災による父親との死別も考えられると

担当課長は話している。

 

私が震災前に園長を勤めていた

幼稚園の卒園生にも、

両親、祖父母、妹が亡くなり

当時小学校低学年の女の子、

1人だけになってしまい

親戚に引き取られた子がいた。

また、仮設住宅に居た頃は、

サッカー好きの小学4年生と1年生の兄弟が

「園長先生〜」とよく声をかけてきたので

いろいろと話した。

その中で彼らが

「どこに行ったか、

お父さんもお母さんもまだ帰ってこない」と。

震災から数ヶ月後のことだったので

その真意は分からない。

なにかの事情で

親と離れて暮らしているのか、

震災で行方不明になっているのか……。

しかし、気丈に話す2人を見ながら

私は自分が泣いていたことを思い出す。

弟は、兄がサッカーをする

スポーツ少年団に

自分も入ることを

楽しみにしていると言っていた。

祖父母と暮らしていると聞いたが、

今はどうなっているだろうか。

 

さらにもうひとつの残念なニュースは、

せっかくかさ上げした土地の一部が

20センチも地盤沈下。

その原因がわかったと記事にはあるが、

市民としては不安でならない。

今後このようなことが起こらないように

祈るのみである。

そして、最後は

もうひとつの嬉しい記事。

現在まで、

陸前高田小学校がある場所では、

子どもたちの授業と並行して、

市役所新庁舎建設のための盛り土工事を実施。

校庭は使えず、

裏に小さな運動場が作られ、

離れたところに仮設の運動場もあるが、

ダンプが行き交う道路を

歩いていかねばならず、

危険で不便な状況にあった。

それが今後、

海から2キロ離れた高台に移転、

その新築工事が来年6月には終了し、

夏休み明けの2学期から

新校舎を使用開始予定だという。

当時の面影はないが、

生まれ育ったお寺のすぐ近くにあり、

放課後も遊びに行ったりと

思い出がいっぱい詰まった

私の母校でもある。

市内の中心校であり、

校庭は校舎より2メートル以上も下にあり、

3方向がスタンドに囲まれた

他にはない造りであった。

引っ越しが終わると解体作業が始まり、

その後、市庁舎の建設と工事が続き

寺の周りは工事関係車両が行き交うのだろう。

還暦のお祝いには

母校の最後の姿をしっかりと見よう。

1958年生まれ。岩手県陸前高田市にある浄土寺の住職。以前は併設の幼稚園で園長も務めていたが、東日本大震災で寺は大規模半壊、園舎は跡形もなく流され現在休園中。奇跡的に家族の中には犠牲者が無かったが、愛犬一匹を失い、自身も避難所で3カ月、仮設住宅で3年間の生活を余儀なくされた。最大規模の被災地にある寺の住職として、犠牲者の魂や遺族たちの心を支え続けている。現在は妻と震災後にやってきたフレンチブルドッグのハナちゃんと生活。3人の子どもたちは成人し、それぞれ東京などで暮らしている。

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