㉒お金の訓練

日本では多くの人が、

多額の貯金を抱え込みながら、

自分のためにさえ使わないまま、

死んでいくという話。

また世界的に見ても、

大富豪の自殺などは珍しくなく、

そろそろ、

「お金はあればあるほどいい」

という社会のメッセージは、

本当にそうだろうか?と

疑うべきだと考えます。

いくらお金があっても

それを失うことの恐怖が上回り、

恩恵を享受できないばかりか、

精神を病んでしまっては、

まったく幸せとは言えませんものね。

では、お金との健全な向き合い方とは、

いったいどんなものでありましょうか。

ここ数年の研究課題であります。

今から約15年前、

友人たちとエジプト旅行に行った時のこと。

ガイドブックに外国人旅行者は、

何かとふっかけられるので要注意、

とありました。

特に面倒なのはタクシーです。

窓越しに行き先を告げ、先に料金を交渉。

高いと感じれば、

他の車を探すふりをして、

もっと安くしてくれなきゃ乗らないよ、

という素振りを見せるのです。

すると運転手は必ず、

ワカッタワカッタ、

安クスルカラ乗ッテヨ、と

折れてくるとのこと。

当時、エジプトの物価はとても安く、

日本人にとっては

たかが数十円から数百円です。

しかし私たちは、

旅行者から高い金を巻き上げようとする

悪徳運転手を成敗するような

ある種の正義感、

また単純に、少しでも値切って、

その分、旅をもっと楽しみたいという欲求から、

多少面倒くさくても、

せっせと交渉するのが

良いことだと思っていました。

ですからその時も、

異国の運転手を打ち負かし、

うまく値切れたと満足して、

後部座席に乗り込んだのであります。

 

しかし、すぐに

目を疑う場面に出くわします。

タクシーが赤信号で停まった瞬間、

道路の両脇から物乞いの子どもたちが

いっせいに出てきました。

車の窓をノックして、

ギブミー・マネーとやってきます。

すると、

運転手が何食わぬ顔で窓を開け、

男の子にコインを渡したではありませんか!

それも数枚。

これにはビックリ、仰天いたしました。

 

彼はつい今しがた、

私たちから1円でも多くとろうと

必死だったはず。

なのに、

道端の子どもに平気でお金をあげるとは、

いったい、

どういう了見でありましょう。

まったく意味は解せませんでしたが、

とにかくその瞬間、

何とも言えぬ敗北感と恥ずかしさが

一気にこみ上げたのを思い出します。

のちにこれは、

「喜捨(きしゃ)」と呼ばれる

イスラム教の教えであることを知りました。

自分よりも貧しい者に喜んで与えることで、

神の前に「徳」を積むことができるという、

ざっくり言えばそういう概念です。

その視点なら、

タクシー運転手にとって、

ストリートチルドレンは

「自分よりも貧しい者」となり、

私たち日本人は、

遠い外国からわざわざ

遊びに来るだけの財力を持つ「富む者」です。

外国人観光客よりも貧しい自分たちが

少しくらい「与えられる」のは、

当然なのでありましょう。

それから数年後、

私はひょんなことから

ゴスペルクワイヤーに参加して、

その歌詞の意味を知りたいと思い、

聖書を読むようになりました。

そこで初めて、

現代では敵対しているように見える

イスラム教とキリスト教も、

おおもとはユダヤ教の聖典である

「旧約聖書」から派生したことを知りました。

世界の信仰はもともとひとつ、

同じ神から始まった、

ということですね。

その凄すぎる「旧約聖書」にも、

「十分の一献金」という

お金にまつわる話が掲載されています。

 

6000年~7000年の

歴史を持つと言われる「旧約聖書」、

そこに書かれた神の法則が

当時の国造りの基礎となりました。

日本でも卑弥呼の時代などが

そうであったように、

すべてのことは神に祈りを捧げ、

決められていく社会。

当然、神事を行うには、

人の労力や物が必要です。

そこで神のルールブック=「旧約聖書」では、

「収入に応じて捧げものをしてください。

目安はだいたい、10分の1」と

人々に教えた、というわけであります。

(池上彰風)

このシステムは今で言う、

所得税に似ているかもしれません。

が、まったく違うのは、

支払う側のメンタルです。

強制的にとられるのと

自らすすんで差し出すのとでは、

雲泥の差。

収入の10分の1。

なかなかのハードルではないでしょうか?

ちなみに、

キリスト教会へ行くと

礼拝の終わりに献金袋が回って来たり、

献金箱が置いてあるなどします。

教会の運営にもお金がかかるので、

みなさんで賄おうということですね。

もちろんこれは、

「収入の10分の1」を

強要するものではありません。

それどころか献金自体、

するもしないも自由、

金額も自由、

そもそも、

教会に来ること自体が自由ですから、

すべては個人に委ねられるというわけです。

ええ。

惜しいと思えば、

献金袋に入れたふりして、

実は入れないまま

隣の人に廻しちゃってもいいんです。

献金箱を見て見ぬふり、

素通りして帰ってもいいわけです。

誰からも、

けして責められることはありません。

ただ、子どもの頃、

よく親や学校の先生に

「お天道さまが見ているよ」と言われました。

あれとまったく同じ原理で、

人が見ていない場面でこそ、

自分自身の真価が問われるというわけであります。

人が見ていなくても

神さまが見ているよ、という考えは、

場合によって、

かなり恐ろしい気もすれば、

ものすごいスケールの

安心につながることもあります。

例えば、どんなに努力してもうまくいかない、

自分よりも後から来た人が

脚光を浴びたり、

出世するなど。

人生には不条理だと感じることが

山ほどありますね。

そんな時、

「人が誰も見ていなくても、

あなたの頑張りは神様が知っているよ」

と言われれば、

怒りで震えた肩の力が、

ほーっと抜ける気がしませんか。

さて、お金の話に戻りますと、

私は特に東日本大震災以降、

応援したい団体や自治体、

被災地などにときどき

寄付をするようになりました。

これはけして慈善ではなく、

自分の訓練のためです。

私のような小心者は、

放っておくと、

お金を握りしめたまま離さない、

つまらぬ老人になる可能性が非常に高いので、

今のうちに自ら手放す、

すすんで流すという習慣をつけたいのです。

ときどき、

お金持ちでも慈善家でも仏教徒でも

クリスチャンでもないのに、

人知れず、こういうことを

サラリと真心からやってのける人がいて、

何かの拍子でそれが発覚した時には

もう、うらやましくてうらやましくて仕方ありません。

なぜならそういう人は、

お金よりももっと価値あるものを

存分に手に入れているように見えるからです。

そういうものに、私はなりたい。

(相田みつを風)

一軒家を購入し、ちょうど一年が経ちました。自慢のお庭には、ドクダミの花が満開です

塩坂佳子(しおさか・よしこ)

大阪府高槻市出身。関西学院大学文学部卒業後はアルバイトなどを経験し、25歳でフリーランスのライター兼編集者として開業。2000年に大阪を出て、友人が住む小笠原諸島父島へ。釣り船の手伝いなどをして島暮らしを満喫、その様子を雑誌に連載するなどして2年間の長期滞在を楽しんだ。その後、板橋区へ移住し、東京でのライター・編集業を本格始動。主な仕事は結婚情報誌「ゼクシィ」や「婦人公論」などで執筆。出版社との契約で中国上海市に1年間駐在、現地編集部の立ち上げと雑誌創刊などにも関わった。

東日本大震災後は、震災ボランティアとして宮城県を中心に訪問。2013年には、上海在住のイラストレーター・ワタナベマキコと共に、東北の名産品をユニークなキャラクターにした東北応援プロジェクト「東北☆家族」を立ち上げ。東京に住まいながら活動を続け、2015年秋に宮城県石巻市へ移住。2年間は主に石巻市産業復興支援員として、復興や地方再生を促す街の情報発信を担当した。2017年9月には自分の会社を設立。現在は、自宅兼オフィスとして購入した築50年の庭付き中古一軒家をDIYでリノベーションしながら、愛猫・ふーちゃんと共に新生活をスタートさせたばかり。

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