⑫1.17 阪神淡路大震災から

大手新聞のベテラン記者が、世の中の出来事や自らの仕事、人生について語ります。私生活では高校生の長男と中学生の長女を持つ父。「よあけ前のねごと」と思って読んでみてください(筆者談)

1.17 阪神淡路大震災から

1995年1月17日の阪神大震災。

当時、四国の高松市に赴任していた私は、

大きな揺れで目を覚ましました。

マンションにトラックでも突っ込んだか、

と思うほどの衝撃でしたが

揺れは一瞬だったように思います。

あれから23年。

神戸は防災・減災を考える拠点ともなりました。

揺れで目覚めた私は、

窓から道路を見下ろして事故でないことを確認し、

「地震だったのか」と思い至る

ボケっぷりでした。

で、見回しても被害はさなそうだったので

「きょうは、交通機関の乱れでも書こうか」と

押っ取り刀で

JR四国の本社に向かいました。

記者クラブに着きテレビを見ると、

神戸の街が大変なことになっていた。

数日後、

全国から記者が被災地に集められました。

私は西宮市にある阪神支局に投入されました。

陸路は寸断されていたので、

フェリーで神戸の青木(おうぎ)港へ。

がれきの山を目の前にし、

不謹慎にも

「戦争映画のセットのようだ」と思いました。

西宮は学生時代を過ごした街です。

小回りの利くバイクで避難所を回り、

声を集めますが、

かなり失礼な仕事でした。

全国から集まった記者が

同じようなことを繰り返し聞く。

「地震のとき、どうでしたか」

「生活はどんな状況ですか」

「何が足りないですか」

「家族は…」。

いわゆるメディア・スクラム状態ですね。

避難所では、

献身的なボランティアが多いのに驚きました。

しかし時にはトラックの荷台から

支援物資を投げ下ろし、

被災者が群がるという光景に遭遇し、

無性に腹が立ちました。

避難所を少しでもよくしようと

奮闘する自治会の人たちと、

自分勝手な人たちの

コントラストもやりきれない。

うるさいだけのロックバンドの

「慰問」にも出会いました。

軽トラの石焼き芋は

1個千円で売られる一方で、

暴力団は炊き出しをしていました。

街頭で携帯電話の申し込み受け付けがあり、

長蛇の列ができていました。

世界では、整然と行動する

日本人の姿が賞賛されていましたが、

男子中学生のグループが夜道で

女性を襲っているという

胸くその悪くなる噂も聞こえてきました。

たき火で暖を取っている人に話を聞くと、

自宅のがれきが燃料だという。

「これもいつまでもつかな」と、

燃料切れを心配していました。

ところが、

電車で30分ほどの距離にある大阪は、

震災前と変わらぬ姿と賑わい。

被災した人の多くも

鉄道の復旧に応じて

避難所から大阪の勤め先に通っていました。

しかし、地元で勤めている人は、

それこそ「明日をも知れぬ」生活。

被災者の支援をする

自治体職員もまた被災者でした。

当時の私は、

目の前で起きていることの細部を取材しながら、

漠然と思っていました。

「大災害とはこういうことなのか」

「これからどうなるのだろう」

「これはいつか終わるのか」。

頭をひねっていたのは、

明日は何を取材して書こうかということばかり。

取材を終えて夜、

支局に上がり、

翌日の取材計画を申告する必要があったのです。

読者は毎日、

被災地の情報を求めている。

だから、

こうしたどぶ板をはがすような取材は

絶対に必要なものだったと今も思いますが、

そこで何か個人的に得たものはあったかというと、

皆無です。

「被災地に行って、

勉強しようなんていうのはダメなんです」。

今年1月9日、

三重県教育委員会の会議に招かれた

防災学習アドバイザー・コラボレーターの

諏訪清二さんが語りました。

「被災地は教材ではない。

学ぶことがあったとしても、

それは結果」

諏訪さんは

兵庫県立舞子高校環境防災科の初代科長を勤め、

現在は神戸学院大学現代社会学部非常勤講師、

兵庫県立大大学院減災復興政策研究科特任教授。

東北、熊本といった被災地に

いまも赴いているそうです。

だから災害から教訓を引き出すことは

否定しません。

その上で被災地に行くのは、

あくまでも支援が第一の目的であると言います。

「勉強しに来ました、

という考えの人はほんとに迷惑」と。

重要なのは、

そこにある矛盾や不合理、

したくてもできなかったことなどを、

いつ災害に襲われるかもしれない

「未災地」に

「持ち帰る」ことだというのです。

私は98年、

高松支局から神戸総局に異動しました。

震災からまだ3年。

神戸と言えば

震災の記事が求められることに変わりなく、

取材もしました。

しかしその後、

経済部に移り

さまざまな分野で取材経験を重ねる内に、

震災取材の記憶は薄れていきました。

幸い、より優秀な記者の記事が

たくさん残されていますし、

書籍にもなっています。

その上、関西地方で発行される新聞には、

それこそ秘伝のタレを継ぎ足すように

毎年1月17日前後に

震災関連の記事が大量に掲載されます。

関西に行って時間があれば、

図書館で各紙の1・17を読んでみてください。

今はきれいになった神戸に

震災の何が残されているのかが

書かれているはずです。

そこには持ち帰るべきものがある、

と思います。

粂 博之(くめ・ひろゆき)

1968年生まれ、大阪府出身。関西学院大学経済学部卒。平成4年、産経新聞社に入社。高松支局を振り出しに神戸総局、東京経済部、大阪経済部デスクなどを経て2017年10月から単身赴任で三重県の津支局長に。妻と高校生の長男、中学生の長女がいる。

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