⑥捨てられた花嫁

普通の主婦が突然のうつ病発症!「心の風邪」という言葉が世に出始めた頃でした。約10年の闘病生活から抜け、今年になって自ら一錠の薬も飲まなくなった筆者。この連載は、一度は壊れてしまった主婦が自分だけでなく家族の笑顔も取り戻すための奮闘記です。

捨てられた花嫁

自分の本当の心に気づかないフリをして、

ごまかして過ごす事ほど、

つらい事はありません。

私の最初の結婚は、

まさに自分を捨てた結婚でした。

 

家庭の事情で大学進学の夢を断念し、

大手通信会社に就職した私は、

自分の本当の居場所を探していました。

そして、「このまま終わってなるものか」と

何か見えない敵と常に闘っていました。

本当にやりたい仕事ではなかったのに、

就職させられた。

親に進路を決められたと思っていたせいか、

仕事がちっとも楽しくありませんでした。

交代制勤務の女性ばかりの職場に

居続けるつもりもなく、

入社後すぐに学習塾へ通い、

将来の幹部候補生を育成する

職場内の訓練校受験の準備を始めました。

お給料を頂きながら全国レベルの東京では二年間、

東北レベルの仙台では一年間、

営業販売や経理経営の勉強が出来るとあって

社内でもかなりの競争倍率。

就職して三年目に両方を受験し、

東京へいくコースには落ちて、

一年間、仙台市内で寮生活するコースに合格しました。

最初の結婚相手であるKさんとの出会いは、

その職場内研修センターでした。

東北6県から20人が集まり、

女性はそのうち私と既婚者の二人だけ。

同じ年代のKさんと私はすぐに意気投合し、

お付き合いが始まりました。

一年間の研修の中で、

公認の仲となった私とKさんは、

私が彼のお宅に週末ごとに伺うような生活でした。

私はすぐに彼のお母さんとも仲良くなりました。

周りの人たちも私たちの結婚を期待していました。

人から期待されたら応えようとするサービス精神が

Kさんにもありました。

そうして、お互いに「将来についての話し合い」や

「結婚後の生活について」を

一度も話し合わないで、

両家が会う事になりました。

私の両親は、

幹部候補生を育成する研修まで受けた娘を

結婚してすぐ退職させる訳にはいかないと、

「結婚後も仕事を続けさせる事」を条件としました。

当時、職場結婚している人は大変多かったので、

何の疑問ももちませんでしたが、

仙台での研修を終えた後の配属先は、

私が仙台で、Kさんは福島県のいわき。

そして、Kさんの実家はその丁度

中間地点である小高というところでした。

Kさんのご両親は

私の親より20歳以上も年上で、

お姑さんは40代でKさんを産んだので既に60代。

当然のように彼の実家での同居を希望しました。

つまり結婚後は、

朝5時前に起きて6時の電車に乗り、

夜も19時過ぎに帰ってくるという過酷な生活に。

それを毎日できると思った自分がバカでした。

私たちは二人とも、

お互いの愛情で結婚しようと

思った訳ではなかったのです。

彼は、ご両親に早く孫の顔をみせたい結婚。

私は、親から離れて暮らす為の結婚でした。

真意をつくような話や気まずい雰囲気になると、

話をごまかして曖昧にして、

お互いに別れを切り出さないように

仕向けていたように思います。

結婚式の準備をしている頃に、

私は自分が妊娠している事に気づきました。

しかし、当時は二人とも研修期間を修了して

仕事もこれから頑張っていこうとしている時です。

私自身は子供を産む気持ちにはなれませんでした。

男女雇用機会均等法が施工されて、

私自身の仕事人生は

これからという思いもありました。

妊娠の事実は両家の親には言わずに、

2人で話をして中絶しました。

しかし、このことが後で

2人の関係に大きく影響するのでした。

彼はさほど気にする様子もみせてはいませんでしたが、

このころには決意していたのかもしれません。

後になって思い起こすと、

自分の母親と仲がいい彼女はうれしいけれど、

自分の子供を産んでくれない女は嫌だったはずです。

そして、私の親から仕事を辞めさせるなと条件を出された事も

本当は納得していなかったに違いありません。

お互いにギクシャクした気持ちを抱えながらも、

別れや婚約破棄を言い出せずに、

とうとう結婚式前夜になりました。

大きな結婚式場に、

研修で一緒だった職場の仲間や

両家の親戚が明日には集います。

私と母と妹がその結婚式場に泊まって、

父がバスを引率してくる役目でした。

突然私たちの部屋を訪ねてきた

Kさんと頼まれ仲人のご夫婦。

「やっぱりこのまま結婚はできない。

明日、全員の前で謝るので、

この話はなかった事にして欲しい」というのです。

私の母は、激怒しました。

「そんな恥ずかしい事が出来るはずがない。

お金もかかっている。世間体だってある。

ここは何とか、何事もなかったように

結婚式と披露宴を終えてくれまいか」といいました。

頼まれ仲人ご夫婦も同じ事をいいました。

しかし、ここへきてKさんは譲りませんでした。

私は何も考える事ができず、

ただただ泣いていました。

後から思う事は、

もっと早くこの結婚をやめておけばよかったというだけです。

本当は自分もこの結婚に疑問をもっていたのに、

結果的に相手から別れを切り出されたことで、

捨てられたようなみじめさが残りました。

 

こうして、泣いて目を腫らした花嫁は、

結婚式と披露宴と新婚旅行を

淡々とすませました。

初めてのハワイ旅行中も個人行動で、

ホテルの部屋の鍵を持ち忘れて締め出されたり、

買い物も一人で出かけたり散々な思い出です。

成田空港から一度は彼の実家に帰りました。

すでに彼は、

職場のいわきに寮を借りて家をでていました。

用意周到だったわけです。

私とお姑さんは泣きながら話しました。

私は夫になるKさんと結婚したつもりでしたが、

実はお姑さんと仲良くなりすぎて、

Kさんも別れを言い出しづらかったのかもしれません。

自分さえ頑張れば、

自分さえ我慢すれば

全てがうまくいくと思っていました。

お互いの赴任地が決まった段階で

お別れしてもよかったし、

別居婚でもよかったかもしれません。

仕事をする為に子供をすぐに持ちたくないなら

それも伝えた方がよかったですし、

それなら相手も

結婚しようと思わなかったかもしれません。

お互いの思いをぶつけ合う事をしないで、

余計な心の傷をつけあってしまいました。

私もKさんも両家の親も

「世間体」ばかり気にして生きていました。

私の母は「出戻りが帰って来る家は無いからね」と

その後、私を拒絶しました。

数日間、Kさんの両親の元から出勤して、

ホテルに泊まったりして二週間ほど過ぎた頃から、

電車がちょうど通りかかる

岩沼の祖母の家にご厄介になる事になりました。

そして、私が激やせしたのを心配した

当時の福利厚生課長さんの計らいで、

会社の借り上げアパートでの一人暮らしが始まりました。

本来は仙台市内に実家がある女性社員は

入居できない女子寮となっていましたので、

当時お世話になった皆様には感謝しきれません。

そして、その後の離婚の手続きは

すべてお姑さんがやってくれました。

ほどなくして、

Kさんは別の女性と再婚した事をききました。

こうして、一人暮らしをしたかった思いは、

ものすごく遠回りして23歳で実現する事が出来ました。

【Seiko】    宮城県仙台市出身。高校卒業後は通信関係の会社に就職。23歳で最初の夫と「成田離婚」を経験し、30歳で二度目の結婚を機に退職。石巻市に移り住み、3人の子供をもうけるが、2006年頃から心の病を発症。「うつ病」と診断され、約10年間の闘病生活を余儀なくされる。今年になって自ら一錠の薬も飲まずに生活。現在は懸命に社会復帰を目指している。

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