親と離れるためのケッコン
私は子どものころから実母との母娘関係がよくなくて、
一刻も早く実家を出たいと23歳の時、
初めておつきあいした職場の同期生との結婚を決めました。
夫になる人のお母さんは、
実母より20歳も年上で、
とても可愛がっていただきました。
しかし、当人同士はボタンの掛け違いのような感じでした。
夫になる人は一人っ子で、「高齢のご両親に早く孫をみせてあげたい」結婚。
私は「親もとを出る」ための結婚でした。
本当に将来を見据えて一緒に暮らしていく話など、
彼とふたりではほとんどしなかったように思います。
挙式披露宴をし、新婚旅行にもいきましたが、
1日も同居しないまま、3カ月後に籍を抜きました。
こうして私は、当時「成田離婚」と呼ばれた経験をしたのです。
実母は、「出戻って来る家はない」といいました。
私は行き場がなくなって、
同じ宮城県でも実家がある仙台とは離れた岩沼という所にある
祖母の家に居候させてもらいました。
その結果、心労から激やせし、当時務めていた会社の厚意で、
借り上げアパートの女子寮に住まわせて頂きました。
7年間の一人暮らしでは、
会社の上司をはじめ、多くの方に助けて頂きました。
しかし、30歳を目前に、実母がまた急に動き出しました。
結婚しない女性は世間体が悪い、と言って、
お見合い話をもってこようとしたのです。
子供の心を考えるより、
自分の世間体が大事な母親。
親戚から「まだ結婚させないの?」と言われ、
「○○はもう子供が産まれた」という他人との比較に縛られて生きている。
今なら「何を馬鹿なことを言っているの」と反抗できます。
しかし私は、
「30歳になったら結婚するから、お見合いはしない」と言って、
母にお見合いを断り続けていました。
世間体を気にする親に振り回されて、
お見合いをさせられるなんて嫌だ。
自分で結婚相手を決めればいい。
今にして思えば、自分で相手を決めても、
親の言う通り、30歳までに結婚しようとした事実は否めません。
バブル期も崩壊寸前の頃でしたが、
結婚するなら自営業かお医者さん、と何故か職業で決めていました。
一度、職場の同期生と成田離婚を経験していた為か
サラリーマンとの結婚に夢は持てませんでした。
こうして、次に出会った自営業を営む男性に
勝手に「運命」を感じてしまった訳です。
心配性という名の「ネガティブ思考」の塊だった母は、
私に公務員と結婚して欲しかったようです。
だから夫とはあまり合わず、
結婚後は実家に帰ることもありませんでした。
私は自分の親に対して、
少しの弱音を話すこともなく、
一度戸籍を汚したと散々言われ続けたので、
今度こそ、なにがあっても「離婚しない」と
固く決意してしまいました。
書きながら今、気づいた事があります。
結婚する前の私は、
夫になる人がどういった関係の仕事に携わっているのか、
自分は「奥さん業」をしているだけでいいのか?
全く知ろうとせずに結婚してしまいました。
これでは、労働条件を確認しないで
就職を決めたのと同じこと。
しかも、もう離婚はできない。
どんなに大変な思いをしても、
ブラック企業だったとしても、
自分から離職はしないと決めたようなものでした。
結婚を「永久就職」と呼んだ時代のお話ですが、
誰かと一緒に人生を歩くって、
本当に大変な事業なのかもしれません。
【Seiko】 宮城県仙台市出身。高校卒業後は通信関係の会社に就職。23歳で最初の夫と「成田離婚」を経験し、30歳で二度目の結婚を機に退職。石巻市に移り住み、3人の子供をもうけるが、2006年頃から心の病を発症。「うつ病」と診断され、約10年間の闘病生活を余儀なくされる。今年になって自ら一錠の薬も飲まずに生活。現在は懸命に社会復帰を目指している。
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